ホ−ム>>アイルランド国旅行更新日 2005/8/7


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写真と文  多田正明
ホテルのバスル‐ム
    KAL機の機窓から  

05.3.15.仁川空港からロンドンに向け出発。中国、北京の北を通り、モンゴルのウランバートル上空よりシベリア、ノヴォシービルクス、オムスク付近を経てウラル山脈を飛び越えてヨーロッパに入り、モスクワの北側を経て、リトアニアからバルト海に出て、コペンハーゲン、ユトランド半島、オランダのアムステルダムの北側を掠めて北海に入り、ロンドン、ヒースロウ空港に着いた。この間12時間の長旅であった。青い大気の下のシベリアやモンゴルの壮大な大地に、上空からではとても人間が住んでいるとは思えなかった。

    大英博物館(The British Museum)

 ロンドンの町並みは歴史的な建造物が多い。大英帝国が世界に100年以上君臨した歴史を感じさせ、富や文化の蓄積を今にまで持っているようだ。大英博物館、ナショナル・ギャラリーの展示物やオペラハウスやミュージック・ホールの多さから文化の厚みを嫌と言うほど感じさせられた。。 
クレムの街
広告塔

    トラファルガー広場(Trafalgar Square)

ロンドンを訪ねるというと必ず大英博物館とナショナル・ギャラリーは忘れずに行くようにといわれる。大英博物館近くのホテルを出て,徒歩でロンドン大学の前を通り、ロイヤル・オペラハウスの前からコヴェントガーデンを経て聖ポール教会の前を通り、ソーホーのチャイナタウンを通って人通りの多いピカデリーサーカスを通り抜けてナショナル・ギャラリーの前に出た。目の前がネルソン提督のトラファルガー広場であった。世界中からの観光客で溢れていた。途轍もなく高いネルソン提督像の下のライオン像に乗って嬉しそうにふざけあうアメリカ人らしい若者がいた。


    ウエールズの田舎町で

この国は緯度が日本より北にあり、かなりの寒さを覚悟していたが、ロンドン到着後も出発した日本より暖かく感じる。ロンドンで聞いた話によると今年は異常な暖冬気象だそうである。実にラッキーである。ロンドンを出てブリテン島を横断してカージフ郊外の古い墓地遺跡の前で休憩した。温かく手気持ちの良いお天気である。
フンダ−トヴァッサ−ハウス
ウィ−ン芸術館

    アイルランドの食べ物と酒 

 アイリッシュ・パブは本当に楽しい。また外で食事をしても常にギネスの生がテーブルに欠かせない。ギネスの生はこちらに来て初めて味わったが、ミルクのようなきめ細かい泡は喉に心地よい。また日本のビールに似ているエールのバスというビールも美味かった。アイルランド人は「日本人はピート臭いスコッチ・ウイスキーばかりを有難がるようであるが、ウイスキーは元々アイルランドが元祖なのだ!」と自慢そうに言う。

 
ウィ−ン芸術館

Fish&Chips(フィッシュ&チップス)やIrish Stew(アイリッシュ・シチュー)にGrilled Lamb(グレイビーソースのかかったラムのグリル)は美味しい。しかしどの料理も量は大変多い。日本の量に比べると3人前は充分にある。

 
    アイリッシュ・パブ(デューラン)

イギリスに着いて以来、初めてB&B(Bed&Breakfast)泊まってみて、パブがとっても便利であることに気が付いた。遅い時間になってしまって、レストランがオーダーストップになった時間でも、酒が飲めてまずまずの料理を出してくれる。料理については「アイルランドの酒と料理」で書いたので、パブの中の雰囲気について述べてみたい。とにかくアイルランド人は、昼間からよくパブに現れる。私のようなまともな会話の出来ない旅行者にも陽気に話しかけてくる。この写真は「オコーナーズ・パブ」というデユーランの有名なパブである。このバンドの若い女性から音楽にあわせてアイルランドダンスのステップを教えられた。少し恥ずかしかったが、酒と音楽はすべてを楽しくしてくれる。この写真で女性がバンジョーを弾いているが、延々と続く音楽はケルト人が古来から持つ独特のリズムと旋律なのだろう。
フンダ−トヴァッサ−ハウス
ウィ−ン芸術館

しかしこのアイルランド音楽やヒールの音がけたたましいリバーダンスやパブの雰囲気の中からアメリカのカントリー・ウエスタンやタップダンスが生まれてきたことが容易に想像できる。またバーボンウイスキーやテネシーウイスキーもアィリッシュ・ウイスキーのコピーだ。このようにアイルランド出身のケルト文化がアメリカ文化の形成に大きな影響を与えているようだ。  文学作品についても、1949年までイギリス領だったし、もちろん英語で書かれていた。このため私達日本人はイギリス文学として受け止めてきたが、ジョナサン・スイフト、バーナード・ショウやオスカーワイルドが初めてアイルランド人であることを知った。

 
    アイルランドの牧場

アイルランドの土を踏んでから、この国は緑豊かな牧畜の盛んな国だ! と言うことに初めて気がついた。上陸後は行けども、行けども緩やかな地形の牧場が続く。緑の牧場には牛、羊、馬がのんびり草を食んでいる。デューラン村のはずれのB&Bで泊まった。翌朝早く起きると、隣の牧場から石垣越に一頭の馬が長い顔を出してきた。東洋の端っこから来た遠来の客を好奇心に惹かれて見に来たのか、挨拶に着たのか、彼の優しそうな人懐っこい目が忘れられない。
ウィ−ン芸術館のレストラン
    アイルランドは緑の国

 この地を訪れる前は、アイルランドは寒冷、曇天、石灰岩の岩の続く荒涼とした土地だ、とばかり思っていた。これまでの私の固定観念は間違っていたようだ。アラン島を中心とした映画や物語を鵜呑みにしていたことがいけなかったようだ。どのような物語や映像にも誇張があるようだ。今のこの地の印象からはアイルランドは牧場の多い緑の国である。そういえばこのアイルランドのナショナルカラーは緑である。

ぺスト
ブダからの眺め
    リムリック(Limerick)

今まで知らなかった都市である。しかしアイルランド共和国では3番目の都市だそうである。若い人が多く活気が溢れている。この都市はシャノン川の河口に出来た町である。シャノン川は水が綺麗で白鳥が泳いでいて、なにかアンデルセンの童話を思い出した。又聖メアリー大聖堂や町並みは中世の建物が多い。ジョン王(ヴァイキングの王)の城から見下ろす眺めは素晴らしい。
ハンガリ-行き列車

    モハーの断崖(Cliffs of Moher)


05.3.19 夕方とうとうアイルランド島を横断して、大西洋岸に到着、モハー断崖に着いた。空はどんより曇っていた。さすがに風はきつい。私の育った日本も断崖の多い国である。しかしここは色んな文章で想像していた通りで凄い。観光案内の写真より凄く迫力がある。  200メーター以上の高さの断崖が延々と4キロも続いている。何かの本に、この世の果て、大地の終焉。と大袈裟に書かれていると思っていたが、やはりその通りであった。どんよりとした鉛色した空や海をバックに浮き出る褐色の絶壁。何と表現したらよいか。大西洋に向かって、大地がえぐりとられている。ふとディビット・リーン監督の名画「ライアンの娘」の冒頭のシーンを思い出した。あのシーンは海も穏やかで空は快晴であったと記憶している。断崖絶壁に立つサラ・マイルズの美しい姿を思い出した。

 
マクドナルドの店
    クロンマクノイズの宗教遺跡 

アスローンの近郊にあるクロンマクノイズはハイクロス(ケルト十字)にケルト独特の渦巻き文様や聖書の物語が丹念に掘り込まれている。ケルト人の本来の宗教は山や大地、川、湖などの神を信仰する自然崇拝であった。日本の神道に似ているようにも思える。しかし5世紀に聖パトリックによってキリスト教が伝えられ、ケルト古来の宗教と融合する形で現在に至っている。
カフェの椅子

    聖パトリック祭のパレード(デユーラン)

 デューランのB&B Daly`s Houseのおかみさんから「明日1時過ぎから聖パトリックディのパレードが催される」という。こんな田舎町に何処にこんな大勢の人がいるのか? と思うほど賑わっていた。この土地の人たちの手作りのパレードに好感が持てた。聖パトリックの奇跡、英国皇太子のカミラさんとの再婚を風刺した山車、ウイスキーやビールの樽を積んで酒を振舞う山車、又子供たちにキャンディやスコーンをばら撒く山車、大変楽しいお祭りであった。我が国とは人口構成が逆で老人が少なく、子供や若者が多い、将来性が期待されるアイルランド共和国なのである。

   


    リンチとサンタ・クロース(ゴールウエイ)

この二つの名詞には全然別々で意味も言葉も関係ない。しかしこのふたつの言葉はアイルランドが発祥地である。  ゴールウエイに来て初めての印象はコリブ川の水量がとても豊かなことであった。15世紀の有力商家リンチ家の城下町として発展した。アビゲート・ストリートの賑やかな通りに現在AIB銀行の支店として使われている建物に小さな記念碑が埋め込まれていた。「1493年ゴールウエイ知事であったジェームス・リンチ・フィッチーブンは自分の息子を殺人罪で絞首刑に処し、確固たる正義を守った」と書いてあった。リンチ(私刑)と言う言葉の起源と伝えられている。又この街には聖ニコラウス教会と言う荘厳な教会があった。聖ニコラウスは子供の守護聖人であり、サンタ・クロースとも伝えられている。キリスト教徒でもない私でも神は信じられる、信じねばならないような気持ちになった。また入口に日本語のリーフレットが置かれていたのにも感激した。


    バレン高原のドルメン(The Burren)

ゴールウエイとリムリックの間に広がるクレア県に何処までも続く石灰岩の丘陵地がある。バレン高原である。かってクロムエルがこの地を攻めた時に「人を吊るす木もなく、溺れさす水もなく、生き埋めにする土もない」拷問の方法を考えるのに苦労した。こんな残酷な話が残っている。ドルメン(巨人のテーブル)は実際自分の目で見るまで、もっと大きいものを想像していた。2メートル程度で、私の育った飛鳥の地の石舞台より小さいチンケなものであった。

ブダの古い建物
ウィ−ンのカフェ

    ダブリン暮色 

夕方、ダブリンに着いた。ダブリンは少し雨が降っていた。オコンネル通りの小雨に煙る夕景は素晴らしく美しかった。ふと前に建っている途轍もなく高い尖塔(Dublin Spire)に気がついた。その正面に1916年のイースター蜂起のときにアイルランド義勇軍が立てこもったダブリン中央郵便局のイオニア式の重厚な石積みの建物があった。  元々この場所にはロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン像と同じものが建っていたそうだが、1966年イースター蜂起50周年の都市にIRAが爆破して、その跡に現在の塔が建てられた。しかし現在、ダブリン子たちは「この塔には何の実用性も無い、無用の長物だ!」「いや! 元々このような建造物は実用性などあるはずがない! 新しい国の象徴としてふさわしい!」とこの像を巡って色々賛否両論があるようだ。 しかしこの美しく雨に煙って、豪華な店が並び、人々が楽しそうに行き交っているこの場所が、凄惨なアイルランド人の屈辱の歴史の現場であるとは、どうしても信じられなかった。

マクドナルドの店    トリニティー・カレッジ(Trinity College) 
1592年にイギリスのエリザベス1世によって創設されたトリニィー・カレッジは由緒と伝統ある名門校である。正面の少し手前に劇作家オリバー・ゴールドスミス像,作家のエドモンド・パークの像が建っていた。ノーベル文学賞に輝くサムエル・ベケットも近代文学科での最初の卒業生であった。又アメリカ合衆国建国当時から、有力な弁護士や政治家を多数輩出した。校内には「アイルランド最古のハープ」「ケルズの書」「ダローの書」を見て、旧図書館の有名な「ロングルーム」に入った。長さ65メートルのロングルーム両側には20万冊の古書が収められて、あたりに黴くさい臭いを漂わせていた。また書架の手前にアイルランドが生んだ14体の偉人の胸像が並んでいた。「ガリバー旅行記」のジョナサン・スイフトやオスカー・ワィルドの胸像に気がついた


    ダブリン中央郵便局 

1916年ヨーロッパは第1次世界大戦の真っ最中であった。英国は大陸に多くの軍隊を送り込み、敵国ドイツと凄惨な戦いを続けていた。その一方で、背後にあるアイルランドの不穏な動きも牽制しなければならない事情があった。このような状況の下でドイツの援助を当てにして、独立派はイースター蜂起に踏み切った。武装した千人余りの義勇軍がこの郵便局に立てこもり、パトリック・ピアーズがアイルランド暫定共和国の樹立を宣言した。これに対してオコンネル通りの向こうから英国軍はこの郵便局に大砲を打ち込み、約1週間後に降伏させた。その後英国は反乱者をろくに詮議もせずに処刑した。このことでアイルランド人の間に一気に反英感情が燃え上がり、やがてIRAの武力活動に繋がって、その後この国の歴史は血塗られた方向に向かった。

ウィ−ンのカフェ
マクドナルドの店    キルメイナム刑務所(Kilmainham Gaol) 
1795年、革命の闘士達を収監するために建てられた。アイルランドの民族運動の記念碑として現在も大切に保管されている。廃墟になっていたこの刑務所を議会は新しい施設に立て替えることを決めていたが、有志が反対して自身の力で残すことに成功した。  1916年のイースター蜂起の時のパトリック・ピアーズほか15名の仲間達はこのキルメイナム刑務所の中で処刑された。内部には拷問用の器具やその当時の新聞や写真が展示されていた。
 
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更新日2005/8/7


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